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2005.4.15台湾台北 002.JPG
真の国際性を文化に求めて 


       時のながれ 『今』・・・・・  


柳内伝統音楽院  主宰 柳内 調風



国際化が叫ばれて久しい昨今、確かに現況の日本を取り巻く状況は、21世紀に入っても政治・経済・金融面など、どの分野を見渡しても厳しい現実を露呈し、その行動においては、即時に決断・実行に移さねば、その存在すら危ぶまれる環境に立ち至ったと見るのは周知の事実である。 


しかるに、日本伝統文化の一端を芸術音楽面で担うべく私が創設した『柳内伝統音楽院』も、この国際化に対応するべくかなり早期から日本近年の文化面での立ち遅れを危惧し、特に小・中・高等学校の教育カリキュラムの構成において、文化、精神面での育成不足に多大な関心を持ち活動してきた。

 敗戦史観に主導された戦後日本の教育界は「平等」と「平和」や「民主主義」という言葉の真意に気が付かず、ただ安穏と時を費やした。

この半世紀にもおよぶ長期に渡り、日本社会の行く先を失い、目標を見失った混迷の事象は当然の報いと言っても過言ではあるまい。 

機会を均等に与えようとする「平等」なる方針は一面その機能において優れているように思われがちだが、フェア-な民主主義における機会均等の「競争心」を減退させ、あまねく『向上心』をも没個性の名のもとに封じ込めた。 『平等』の意味をすべて「同じ」と履き違えてしまった日本人に、いま『努力』を評価しない平和信仰が育ち、若者たちの無気力感を助長させ、選択の自由から発生する有り余る豊かさは『責任』の重さを伴っている事を認識していない。

  「民主主義」も完成された絶対の制度ではあり得ない、かって旧ソ連邦の要人が来日に際し、“我々もこのような社会を作りたかった”と日本を評したが、価値観不在の日本の民主主義は「形式的民主主義」に名をとどめているに過ぎない。  

 真の「民主主義」とは個人が自立し、自分自身の正しい価値観を持ち、個人の責任で判断できることで、はじめて成立するものだからだ。 
民主主義が国家を作り、それが個人を保証してくれているものではあり得ない。民主主義とは、個人の自主的な判断で明確な価値観の上にそれを変化させる事が出来る『制度』なのだ。その制度の最大の特長が『平等』である。

これこそ「機会均等」の事で、すべての人にチャンスを与え、しかしフェア-プレイでの競争でもって結果は努力次第、けれども「敗者復活」もあり得る。

これでこそグローバルな地球時代に突入できる出発点に立てるわけで、それには国際的責任も果たさねばならないのは当然な事である。  

 教育の「機会均等」を御題目に掲げ「平等」を履き違えた世界の国々で今直面している大問題は『文化の世界均一化』である。
それは民族文化や固有の歴史を埋没させ、その国の「誇り」を軽薄な次元で線引きし、真の「国際化時代」への逆行を呈している。

 日本におけるマスコミはその表現においてあまりにも軽薄指向に走りあまつさえ政治家は本分を忘れ「歴史や文化」にたいする知識があまりに浅く、国を憂える様子は形式だけで、表面の部分現象のみ取り上げ『国際化』をいかに叫んでも、結果として自己の価値観を持ち、正当な判断を行動に移行する事をしてこなかった。
 この戦後70年は表面的には「平和」「平等」「自由」を謳歌してきているように見えるが、しかし内実は一番大切な『日本人のプライド』を失い、さまよえる日本人、出口の見えない無国籍人間集団に日本が進んでいるように思えてくる。  

 物質至上主義に立脚し、そのベクトルを欧米なみの生活向上にむけ、ただひたすら「物」「金」に照準を絞った拝金、拝物主義こそ感性無視の一方通行であったことは否めない。 私の言う『文化』とはただ単にソフト面だけではなく日本人としての根源的意識の問題であり、アイデンティティの中核を示す「心根」すなわち『志』の部分である。

 最近の社会的道義感の欠如、宗教観の履き違い等を目のあたりにすると、今後の日本の精神性のあり方を来るべき新しい時代にマッチさせた「世界観」の構築こそ急務であり、日本が連綿として培って来た『融合の美学』でもって、この難局を打開せねばなるまい。 

文化による「創造性」と「個性」の進捗は「教育」の見直しをおいて他にあるまい。 国家の根幹は『教育』である。そこにおいて、この閉塞した状況を打開するには歴史を振り返ること、まさに『温古知新』であり、真摯に「自反尽己」を範とすることにより「伝統」の中に教示を求めねばなるまい。

 日本が奇跡的に難局を乗り越え、幾度となく成功を収めて来たことは、世界の識者の認めているところである。クリストファー・スピルマンは歴史学者の立場から “日本人は危機感それ自体を成功への原動力・力とすることの出来る民族だ” と言及している。日本のこの危機的状況を真摯に受け止め、政治、経済、文化、の全ての面で起こっている内面的崩壊を早期にくい止めこれを打開する道は、日本文化の発展的見直しこそ「起死回生」の妙薬と私は心得る。

 地球的規模で物事が考察され。宇宙レベルで行動がなされたとしても、その根源は個々人の意識の向上、自己の確立、真の『きずき』・・・・即ち、精神性の深さである事は忘れてはならない。それさえも人知の及ばぬ絶対的宇宙観により突き動かされている事も覚知するべきである。

 紀元前3~4世紀に編集されたとする「法句経・第2章  不放逸」に友松圓諦師の素晴らしい訳がある。
 精進(はげみ)こそ不死の道  放逸(おこたり)こそは死の径(みち)なり

 いそしみはげむ者は       死することなく  

 放逸(おこたり)にふける者は  生命(いのち)ありとも 

    すでに「死」せるにひとし



 『伝統』とはただ単に、維持・継続するのではなく「今」確かにうごめいている「創造」の世界である。 真の国際性とは、いかに民族的であり得るかと同根であり、それが普遍的な感性・個性にまで高められるかと言う事である。 ここにおいて、日本人の伝統的な自然観・美意識を甦えさせる為には、形態だけの回帰ではなく、先達によって培われてきた、『精神』による伝統への『創造』がなければならない。

 音や音楽だけではなく『生命の叫び』ともいえる総体的文化がいま希求されている。

 一日はあまりにも短く、一生は瞬時の間でしか無い、時の流れを超え悠久の彼方から古の先達の叱咤が降り注ぐ『而今(いま)』こそ、私たちは行動せねばなるまい。敬服する先達、よき友、良き時、そして善き邂逅を授けてくれた「今日」に 感謝、感謝。

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